九郎生誕記念ショートSS・将臣編
一番に言いたい事 |
空がすっかり闇に沈んだ時刻―風呂上りの濡れた髪を白く清潔なハーフタオルでしっかりと包んで結わえ、パジャマをしっかりと着込んだ姿で九郎はベッドサイドに背を凭れさせて本に目を通していた。 両の手のひらに収まるサイズの文庫本は、まだ現代へ来て間もない九郎でも読みやすいような学童向けの童話のようなものだ。 まだ以前とは違う日常生活に慣れない九郎に趣味の一つでも持たせてやろうと、将臣が九郎にあげた物だった。 その、読んでいたページを読み終わり次のページを九郎がめくった時、部屋の外で音がした。次いで聴き慣れた声が九郎の耳に届く。 「…九郎、ちょっといいか?」 コンコン、というドアをノックする音の後に続いて聴こえた将臣の声に、読んでいた本を栞を挟んでベッド脇のフリーボックスの上に置いて、九郎は扉まで移動してそれを開けた。 扉の前に立っている将臣を見やる。 「…将臣、帰ってきてたのか?もう『ぱいと』は終わったのか?」 今日は将臣のバイトのシフトが入っている日だった。 現代へ戻ってきたとはいえ、あの世界で過ごした三年間の成長までは元通りにはならなかった将臣は、今更高校に通う事など出来ず、かといってプータローでいる訳にもいかずに、今は職を探しながらバイトをしている状況だ。 今はまだ有川家で居候という状態の九郎とこの先の人生を生きていく為に将臣は陰ながらの努力を続けているのだった。 「ああ、今日は遅番だったけど少しだけ早く上がらせてもらったんだよ」 「…?そうなのか、だが何故…?」 将臣のバイト先はファミレスの調理場で、遅番の時は夕方から明け方近くまで入るのが常だ。けれど今日は日が変わるまでに帰って来ているという訳だ。 それには当然理由がある訳だが、その理由を知らない九郎は不思議そうな顔でそう問いかけてくる。 「もうすぐ特別な日だからな、間に合わなかったら意味ねーし」 「…ますます解らん、仕事を残して帰る事が許されるのか…?そのような特別な日とは何だ…?」 真面目な性格の九郎は自分に課せられた仕事をやり残して早く帰ってこれるという事が理解出来ないらしい。 だが、将臣は前々からこの日の予定はシフトの管理をしているチーフに話しておいたし、初めから時間内で終われる仕事を任せてもらえるようにと相談していた。だから実際には九郎が気にするような事ではないのだが。 「ま、すぐに解るって…入るぜ?」 「あ、ああ…」 まだ気にしている様子の九郎を他所に飄々とした様子で将臣は九郎の部屋へと入る。それに続いて九郎も部屋の中に戻って。 ふと、壁に掛かっている時計を見やると、針は23時42分を指していた。 それから少しの間、将臣は特に普段と変わりない様子で他愛もない話を九郎に話した。 九郎も先程気になった事は思考の外に置いて将臣の話に聞き入っていた。 そして、時計の針がそろそろ深夜0時を指そうかという頃、時計を見上げて将臣がポツリと呟いた。 「…そろそろだな」 「…?何だ…?」 将臣の呟きの意味が分からず、九郎はきょとんとした様子で将臣を見る。時間がどうしたというのだろう、という顔で将臣の様子を見ている。 そして―。 長針と短針が時計盤の最上の位置で重なり合った瞬間、待ちかねたと言わんばかりの様子で将臣が口を開いた。 「HAPPYBIRTHDAY、九郎!」 明るい笑顔と共にそう言った将臣に、九郎は訳が解らずますますきょとんとした顔をする。 「は、はっぴ…?どういう意味だ…?」 聞き慣れない言葉の意味を理解出来ずに困り果てた顔で訊いてくる九郎を、将臣の眼差しが見つめる。 「特別な日…お前が生まれてきた日を祝う言葉さ、おめでとうってな」 「…俺の生まれてきた日…?」 この世界では一人一人がこの世に生まれた日―つまり誕生日というものを持っていてそれを祝う風習がある事は、将臣や望美から聞いて知っていた九郎だが、今までそんな風に祝われた事などなかったから自分の誕生日など実感がなかった。だから九郎はその日が近づいている事も気付いていなかった。 「今…日が変わったから、もう今日は九郎の誕生日だろ?」 「あ…11月9日…」 深夜0時になって暦上ではもう、11月9日になった。だから将臣は針が0時を指したのと同時にああ言ったのだ。 「真っ先にお前の事を祝いたかったから…さ」 「…将臣…」 漸く状況を理解出来た九郎にそう告げて、将臣は明るく微笑う。 その笑顔を受けて、九郎も自然と笑みが浮かんで。 「…今日は一日かけてお前を祝ってやるから、付き合えよ九郎?」 九郎との距離を縮めて耳元へと囁けば、照れて赤くなりつつも九郎は小さく頷く。その反応が可愛くて、将臣は九郎を自分の方へ抱き寄せた。 「取りあえず朝までこのまま一緒に寝るか?そんで起きたらどこかに出かけてさ、明日になるまでずっと一緒に過ごそうぜ」 「…ばいとは、行かなくていいのか…?」 抱き締めてくる将臣の背に腕を回しながら、しかし九郎はずっと一緒に過ごすと言った将臣の言葉を気にしてそんな事を尋ねる。すると将臣はカラカラと笑ってあっさりと言い返す。 「そんなもん、とっくに休み貰ってるから気にするな。今日一日俺はお前の為にしか動かないからそのつもりでいろよ」 「…馬鹿だな、お前は…それだけの為にばいとを早く帰ってきたり休んだり…本当に馬鹿だ」 ギュッと将臣の背中を抱き締める九郎の声は、言葉とは裏腹に感極まったように震えている。 「はは…酷い言い草だな」 将臣は九郎を腕に抱き締めたまま参ったという顔でポツリとそう漏らして。 けれど、将臣の胸元に顔を埋めた九郎は小さな声で再び口を開いた。 「…だが、嬉しいと…思った、ありがとう…」 「…九郎…ああ、お前が喜ぶなら何度でも言ってやるぜ」 一際強く、将臣が九郎を抱き締めて。 「九郎、誕生日おめでとう…お前が生を受けて今ここにいる、それが俺は嬉しい…ホントだぜ?」 「…馬鹿…そんなに真剣に言うな・・・っ」 体を包む温もりと与えられる言葉の熱とに頬を真っ赤に染めながら、九郎はそう言うのがやっとだった。 けれど、将臣と過ごす今日という一日を思い浮かべると、否が応にも心が浮き立ってくるのを感じずにはいられない。 そんな期待に密かに胸を高鳴らせ、九郎は将臣の腕の中で瞼を閉じた。 目覚めて迎える朝がきっとかけがえのない思い出になる事を夢見ながら―――――。 |