微かな月夜の光に照らされて、獣のようにしなやかな体が揺れる。成熟しきっていないまだ少年と呼べる、けれど程よく筋肉のついた日に焼けた健康的な肌には、それには似つかわしくない朱がいくつも浮かんでいる。 短く浅く断続的に吐かれる息遣いが暗く静かな室内で響くが、それに気付く者がいたとしてもこの場にしゃしゃり出てくるような存在はなく。 まるで周りの一切から隔絶されたかのような錯覚を感じながら、少年は己を翻弄している眼前の存在を見やった。その瞳が不安の色に染まり戸惑うように揺れているのを、それでも気丈な様子を保とうと眉だけきつく吊り上げている様を、少年の眼前の男は口元に愉しげな笑みを浮かべて静かに見つめている。 深い蒼色の髪が外から入ってきた微かな夜風に揺らめいて男の肩へと落ちる。続いて少年の肌を擽った夜風に僅かに少年が身震いすると、男は更に笑みを深めて射るような双眸で少年の揺れ動く視線を捉えて。 その鋭い紫紺の眼差しに、まるで体の自由を全て奪われたように少年は身動き出来なくなる。 そのまま無言で少年の体を固い床へと押し沈め、男は彼よりも体格のいい自らの体で圧し掛かった。覆い被さるようにして彼の逃げ場を奪ってしまう。 息を詰めて少年が己に襲い来る痛みに表情を歪める。それでも少しも引こうとしない男に、少年の目尻に生理的な涙が滲んで一筋零れた。 重なり合う視線と裏腹にまだ交わりえない想いが、重い空気の中を漂い、渦を巻く。熱く穿たれた熱の激しさはまだ少年を支配していて。 何故…?と呟くように問いかけた声は、静かな闇夜に紛れるように小さく消えていった。 柔らかな春の風が吹き、うららかな陽気が四季の移り変わりを感じさせる。風に攫われた季節の花弁が舞い散る景色の中、珠のような汗を浮かばせて天真は一心不乱に木刀を振るっていた。 汗の染み込んだタンクトップさえ気にならないかの様子で熱中している天真は、一向に素振りを止める気配は見せず、何度も木刀を上段に構えては振り下ろす行為を繰り返す。 その様子を、少し離れた場所で頑丈そうな木に背を預けじっと見ている者があった。勿論天真はその視線の主には気付いていない。ただ何かに取り付かれたように木刀を振り続けている。 勢い良く木刀を振り下ろす度に、程よく日に焼けた天真の肌から汗の珠が飛び散り日光を受けてキラキラと輝く。すらりとした腕を走る汗も同じように光を反射して煌いて、天真を木陰から見ている者の眼に眩しく映える。視線はそのままに、自然にその唇が笑みの形に引き上げられた。それは、この者といて天真が見た事はないであろう類の微笑だった。 ふいに、それまで素振りを続けていた天真の手が止まった。辺りをきょろきょろと見回している。 「気のせいか…?」 ポツリと呟く天真の声が微かに聞こえた。木陰から見られている事に気付いたのだろうか。 「…ま、いっか…きっと気のせいだな、うん」 しかし天真は勘違いだと自己完結して再び素振りを再開した。随分長く続けているというのに意外に疲れ知らずである。 天真が気づかなかった事をこれ幸いと、天真を見ていた存在はそっとその場から離れていく。完全に離れてしまう前にもう一度だけ天真の方を見ると、後は振り向かずに歩いていった。 天真が稽古を続けている場所から離れていく途中で、道の向こうからイノリと詩紋が歩いてくるのを見て少し足を止める。 「あっれー、頼久じゃん?」 「こんにちは、頼久さん。先輩の所に行ってたんですか?」 天真を見ていた男―頼久は駆け寄ってくる二人に短くああ、とだけ答えた。どうやらイノリと詩紋はこれから天真の所へ行くらしい、詩紋の手には大きな荷物があった。稽古を続ける天真に食事でも持って来たという所だろう。 「ん?帰るのか、頼久?」 どう見ても帰途についている様子の頼久に、イノリがすかさずそう訊いてくる。その様子は頼久が帰ろうとしている事を不思議に思っているように見えた。 「これ、頼久さんの分もあるんだけど…藤姫が二人とも出かけたっていうから」 イノリの後に続いて詩紋もそう言うが、それが何故自分の分まで用意されている事に繋がるのだろうか。頼久は思わず不思議に思い訊き返した。 「…何故、私の分が?」 天真の所へ届けてから自分を探して届けるつもりでもいたのだろうか。そう思う頼久だが、実際はそうではなかった。 「…僕の感なんですけど、頼久さん天真先輩といるんじゃないかなって思って、それで」 意外にあっさりと詩紋はそう白状した。僅かに外れてはいるが、実際的を射ていて驚く。 「お前天真の稽古に付き合ってた訳じゃないのかよ?」 横からイノリが口を挟んできて、しかし二人の考えている事と実際の自分の行動の違いに、思わず頼久は苦笑した。 あまり多くの表情を周りには見せない頼久のその突然の苦笑に、今度はイノリと詩紋が驚いた。二人して顔を見合わせてから頼久をまじまじと見る。 「頼久…?」 「頼久さん…?」 重なる二人の声に、しかし頼久は止めていた足を再び天真のいる方とは逆へと進め出す。イノリと詩紋の視線が頼久を追って。 「どうしたんだよ…?」 また喧嘩でもしたのかと心配するようにイノリが問いかける。だが頼久は、僅かに振り返っただけで短く、 「いや…何でもない」 それだけ返してそのまま去って行った。後に残されたイノリと詩紋は疑問を残しつつも頼久とは背を向け、天真が稽古している方へと向かうのだった。 イノリ達がまだ根気良く稽古を続けていた天真の近くまで来ると、それに気付いて天真は木刀を振り下ろす手を止めた。すっかり汗だくの天真へ寄って行きながら、二人はそれぞれに口を開く。 「…天真先輩すごい汗…タンクトップが肌に張り付いちゃってるよ?」 「熱心なのはいいけどさ、ちょっとくらい休憩しろよ」 そう言いながら詩紋は天真へ持参した手拭を渡し、イノリは木陰を選んで天真を引っ張って行って座らせた。少々強引ともいえる二人に呆気に取られつつ天真は二人を見比べる。 「えっと…気、遣ってくれんのは嬉しいんだが…どうしたんだよ?」 天真を座らせるだけ座らせたら二人して何かを確認でもするかのように天真をまじまじと見ている二人へ、何が何だかまるで分かっていない様子で天真はそう訊いてみる。汗で張り付くタンクトップと二人の視線がじっとりとしていて、何だか居心地が悪い気がした。 「お前さ、頼久と何かあったのか…?」 「頼久…?別に…何もないぜ、何でそんな事を訊いてくるんだ?」 唐突にイノリの口から出てきた名前に、天真はどうしてその名前が今出てくるのかと不思議に思いながら、そんな風に答え質問に質問で返した。 「え、それは…さっき頼久さんが…」 「頼久がどうかしたのか?」 頼久とは何もないという天真に、先程の頼久の様子を思い出しながら言いかけた詩紋の言葉を遮るように、また天真が質問を重ねる。流石にイノリも詩紋も驚いて一度顔を見合わせると、すぐに天真に向き直った。 「ちょっと待って、天真先輩さっきまで頼久さんといたんじゃないの?」 「あいつ一人で帰って行ったじゃん?だからてっきり、何かあったのかと…」 口々にそう言いながら詰め寄ってくる自分より年少の二人に、天真は若干引きつつ、何言ってんだ?こいつら…というような顔で二人を見やる。 「何かって…そもそも俺はここで一人で稽古してたんだぞ?いつ頼久がここに来たって言うんだよ…」 頼久が天真の稽古の様子を見ていた事など露とも知らない天真は、怪訝な顔でそう答えた。そうなると、先程帰る途中の頼久に遭遇したイノリと詩紋も、何が何だか訳が分からなくなって複雑な表情になる。 「だって…僕達ここに来る時に頼久さんと会ったのに…」 「天真といたんじゃなかったらあいつ何してたんだ…?」 頼久の意図の掴めない行動に頭を捻るイノリと、頼久が確かにこの場所から帰って行ったのだと思っている詩紋の呟く声が、春の風に穏やかに掻き消される。 一番事情の飲み込めていない天真は、そう言われてもどうしたものかと小さく溜息を吐いた。 京の町並みを歩き土御門へと向かいながら、頼久は先程の天真の姿を思い出していた。汗を弾かせながら一心に稽古に没頭する天真の姿を。 真っ直ぐな眼差しで純粋に強さを追い求める、汚れを知らない瞳。成長途中の若くしなやかな体躯。どうしてそれ程までに強さを求めるのかは、尋ねた事などないから計り知れないが、何故か気になった。太陽の輝きを受けてより映える橙の髪も、少々素直ではないが竹を割ったようなその性格も、気付けば視界へ入れてしまう程度には頼久の心を捕らえている。 初めて対面した時、挑むような瞳で睨みつけてきた彼。その後彼も自分と同じ八葉の一人で、それも四神の対だと知った。初めこそ最初の印象もあって衝突しがちだったが、共に八葉としての試練を乗り越え、最近漸く二人の間の関係が良い方に向いてきている。どうやら四神の対同士が仲良くなくては話にならないようで、それは一見良い傾向と周りからは見て取れた。 しかし、誰も及び知らぬ所でそれが思わぬ方へと向かっている事など、この時はまだ誰も気づいていなかった。当事者である、頼久以外は。 知らず頼久の口元が笑みを形どる。鋭く細められた瞳は未だ脳裏に焼きついている天真の姿を射るように見据えていて。 もし彼が知ってしまったらどうなるだろう、普段の鉄面皮に隠した本性を見せたらどんな反応をするのだろう。それを想像するだけで頼久の乾いた心は水を得たように潤い、同時により強い渇きを齎す。 試してみたい。彼をこの手で捻じ伏せ弄んで、その反応を見てみたい、あの強い眼差しは何処まで輝きを失わずに耐えるのだろう。何処までしたら壊れるだろう。 狂気にも似た浅ましい欲望に思わず苦笑を浮かべる。そうしていつもの鉄面皮へと表情を戻し、もう一つの裏の顔を完全に隠して頼久は、主の待つ土御門へと戻っていった。 だが、その時頼久は気付いていなかった。裏の顔から表の顔へ戻す瞬間自分の脇を偶然通り過ぎていった仲間の存在に。 「…今のは、頼久…?」 振り向いた時には既にいつもの鉄面皮で去って行く頼久を見やりつつ、扇を片手に友雅は呟いた。何やら一瞬様子がいつもと違っていたように感じたのは気のせいだろうかと思いはしたが、別段気にする事なく友雅もそのまま通りへと去って行った。 |
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