7

 バスルームに流れていたシャワーの音が止んだ。ガチャリ、と浴室と脱衣所を隔てるドアを開けて浴室の中から出てきたのは蛮であった。  
 ホコホコと暖かい湯気を昇らせている体の、余分な水滴を近くに掛けてあったバスタオルで拭う。全身をくまなく拭いてから、下着とラフスタイルのスウェットパンツを穿いた。上半身には何も身に着けていない。その為に、絞り込まれたスレンダーな肢体が露になっている。  
 水分を多分に含んだままの髪を、スポーツタオルで乱暴に拭きながら、蛮はバスルームを出てキッチンへと向かった。  
 真っ直ぐに冷蔵庫へ向かい、その扉を開けて中からペットボトルのスポーツドリンクを取り出した。キャップを開けてそのままラッパ飲みすれば、程よく冷えた飲料水が喉越しよく蛮の渇いた喉を潤した。  
 スポーツドリンクを片手に下げたまま、蛮は自室へと戻るべく廊下へ出た。暫く歩くと、自室のドアの前に座り込んでいる者の姿が目に入り、蛮はその自室前にいる者へ声をかけた。
「…そんなトコで何してんだ、銀次?」  
 蛮の声が聞こえて、銀次は声のした方へと顔を向けた。からかうような、それでいて優しげな蛮の声に、銀次の表情が綻ぶ。
「何って、蛮ちゃんを待ってたの」  
 嬉しそうに、銀次は蛮に答える。んしょっ、と立ち上がって蛮が部屋に入る為の道を空ける間も、銀次はにこにこと笑っていた。それだけ上機嫌なのはやはり雷牙が帰ってきたからだろうか、などと蛮は嬉しいような悲しいような複雑な気持ちを覚えた。  
 蛮が部屋に入るのをじっと待っている銀次を見やれば、エヘへ…とはにかむように更に笑顔を零す。本当に底抜けに機嫌がいいらしい。  
 だが、そんな銀次も可愛いと思った蛮はそれ以上は追求しない事にした。
「…おめーも入れよ、オレに用があんだろ?」  
 蛮が室内へ入っても入り口でただ待っているだけの銀次に、そう言ってやる。すると、銀次はまたも笑みを満面に湛えて微笑った。  
 蛮に促されるままに彼の部屋の中へ入った銀次は、そわそわと、落ち着かない様子で視線を泳がせている。先程から自分を待っていた事とその様子から、銀次は何か話したい事があるのだと思う。だが、どうやら言い出しにくい事らしい。
「ちょっとは落ち着けよ…つーか、話があんじゃねーのか?それで待ってたんだろ?」
「う、うん…そうなんだけど…」  
 蛮に質問されて答える間も、銀次は落ち着きなくそわそわしている。
「…何なんだよ、言わなきゃ解らねーぞ?」  
 言いたい事があるなら早く言え、聞いてやるからと、蛮は目前で未だ落ち着かない銀次にそう言ってやった。
「う…ごめんなさい。えっと…えっとね、オレね…」  
 蛮が急かすので怒らせたと思い、銀次はシュンとなって謝った。そしてすぐに舌足らずな口調で話し始めるが、なかなか上手く言葉に出来ない。  
 それでも蛮は、銀次の話を聞く為に彼が話すのをじっと待った。
「あの、ね…オレ、この間の、返事に来たの…約束、したから…」
「この間の、返事?」  
 銀次の言おうとしている事が何であるか、この時点で蛮は察していたが、彼自身の口からちゃんと聞きたいのでわざとはぐらかして答える。
「うん…こないだ、蛮ちゃんオレのこと…好き、って言ったでしょ…?オレ、あの時の返事まだしてないから…だからオレ…」  
 自分の言っている内容が余程恥ずかしいのか、銀次の顔は真っ赤になっている。自業自得といえ、自分からそれを言わなければならない状況が羞恥心を高めているようだ。
「…それで?お前の気持ち、今ここで聞かせてくれんのかよ…?」  
 蛮がはやる気持ちを抑えてそう言うと、銀次は顔を真っ赤にしたままこくん、と頷く。  
 覚悟を決めたのだから黙っていても埒は明かないし、いつまでも渋っていては背中を押してくれた雷牙に申し訳ない。意を決して銀次は、蛮に自分の気持ちを伝えるべく口を開いた。
「オレ…オレも蛮ちゃんの事が好きだよ…」
 それだけ言うとあまりの恥ずかしさにまともに蛮の顔を見れず、きゅっと目を閉じて銀次はバクバクと高鳴る鼓動の音を聴いた。
 だが、そんな銀次が落ち着く間を与えず、蛮は銀次の体を己の腕の中へ抱き寄せた。突然抱き寄せられて、銀次は閉じた目を目一杯に見開いて驚く。
「うわ…っ、ば、蛮ちゃん…っ?」  
 赤く熱った顔の銀次と、真摯な顔の蛮の視線が重なる。  
 蛮の端整な顔が少しずつ、銀次の顔と近づいて。
「ん…んん…っ」  
 薄く開いた唇に、蛮の唇が重ねられて、銀次はくぐもった声を漏らした。蛮の腕がしっかりと銀次の腰を抱き締め、これ以上ないくらいに二人の距離は近い。
「…ん…んぅ、んっ…」  
 歯列を割って侵入した蛮の舌に銀次の舌が絡め取られ、自然に口付けは深いものへと変わる。銀次は全身で蛮の存在を感じたくて、自分を抱き締める彼の背中へと腕を回した。  
 そうしてどれ程の時間、口付けを交し合っただろうか。やがて、まだ名残惜しいという様子で二人の唇が離れた。あまり慣れていない行為に、銀次は息が上がっている。
「…銀次、大丈夫か?悪ぃ…ちっとばかり抑えが利かなかった」  
 ハァハァと肩で息をする銀次を気遣って、蛮はそう声をかけた。蛮にそう訊かれ、銀次は大丈夫だと言って蛮の腕の中に体を摺り寄せる。
「今の言葉は本当だよな?…オレを好きだって、言ったよな…?」  
 腕の中の銀次に確認するように蛮が問う。 この腕の中に確かに感じる温もりは夢などではない筈だと思う。しかし、もう一度彼の口からその胸に秘めた想いを聞きたかった。
「…本当だよ、蛮ちゃん。オレ、蛮ちゃんが好き…大好きだよ…っ」
「…銀次…」  
 ぎゅっと、蛮の体を抱き締めたまま腕の中から蛮を見上げて、銀次は答える。言葉も行動も稚拙だけれど、銀次が蛮を想う気持ちは触れ合う体温が蛮に伝えてくれた。  
 自分が銀次を愛するように、銀次も自分を愛してくれている。それが、ただこうして抱き合っているだけで、強く深く、伝わった。
「オレ、雷牙みたいに強くもないし、蛮ちゃんの足引っ張ってるだけかも知んないけど…これからは少しでも役に立てるように頑張る。だから、ずっと一緒にいてもいいよね、蛮ちゃん…?」  
 蛮の腕に包まれたまま、銀次は必死にそう語った。少しでもいい、今よりも蛮の力になれるような自分になりたいと、銀次は強く思っていた。
 足手まといにだけはなりたくない、だから自分にしか出来ない事を見つけて、役に立てるようになると、そう、銀次は心に決めたのだ。
「バーカ…そんな事気にすんな、お前は今のままで十分だ。お前にはお前にしか出来ない事があんだろ…オレや雷牙には到底真似出来ないような力を、お前はちゃんと持ってる…」  
 それは、万人に向けられる聖母のような慈愛の心。こればかりは蛮も雷牙も、持ち合わせていない。誰にでも分け隔てなく優しく出来る、それが銀次の強さだった。
「心配しなくても、ずっと一緒にいてやんよ…オレがお前を手放したくねーんだからよ?」
「蛮、ちゃん…」  
 『手放したくない』という言葉を肯定するようにしっかりと銀次の体を抱き締めて離さない蛮に、銀次は嬉しさのあまり、蛮の胸に顔を埋めて嬉し涙を流しながら彼の名を愛しげに呼んだ。  
 蛮の指が、そんな銀次の涙を掬い取る。  
 銀次が蛮の手に導かれてそっと顔を上げて。  
 二人はそのまま、互いに互いを抱き締め、無言で再び唇を重ね合った―――――。  

 奪還屋の三人に、普段通りの日常が戻ってきた。いや、これまでとは大なり小なり何かが変わったことは間違いない。しかし、依頼を受け仕事をするという、本来の生活に戻ったのも確かであった。 三人の間における関係は大きく変わったけれど。
「うわぁ〜っ、蛮ちゃん起きて起きて…っ。依頼人さんに会う時間だよっ」  
 三人の住んでいるマンションの一室に、そんな慌ただしい声が響く。どうやら蛮が仕事の時間になっても寝ているらしい。
「…くぁ〜…雷牙はどうしたよ?」  
 無理やり銀次にたたき起こされた様子の蛮が、欠伸をしながら尋ねる。
「雷牙は昨日の夜、赤屍さんのトコ泊まりに行ったじゃない…まだ帰ってきてないよっ」  
 どうやら雷牙はその後赤屍と上手くいっているようで、既に蛮にも銀次にも公認の関係となっているようである。
「か〜、あの野郎の所かよ…。なら今日はオレらだけで行くしかねぇか」  
 わざとらしく悪態をつきながら、蛮は愛用のシャツを身に纏う。既に身支度を整えていた銀次が、蛮にスバルの鍵を手渡す。
「早く行かなきゃね。さっきヘヴンさんから電話掛かってきてカンカンに怒ってたし…」  
 銀次がそう言うのを聞いて、蛮の脳裏にカンカンに怒るヘヴンの姿が浮かんだ。あまり見たいと思えるものではない。
「しゃーねー…気合入れて行くとすっか!」  
 蛮がそう、自分に喝を入れて玄関のドアを開け放つ。開け放った扉の向こうには、青い空が広がっていた。その青い空へ向けて、蛮は声も高らかに宣言した。
「…奪還屋『GetBackers』、出動だ!」  
 扉の外の世界へと蛮は歩み出す。その後を追うように、銀次も開け放たれたドアを潜って外の世界へと足を踏み出した―――――。



                   戻る  第二幕へ