堕つる翼
1
不気味なまでの静けさに包まれた夜の闇の中、力なく横たわる天真の上を僅かな戸口の隙間から入り込んだ夜気が通っていく。 夜気に晒され、ブルッと天真の体が震える。やけに重たい体を僅かに動かし、水底から這い上がるように…天真は途切れていた意識を覚醒させた。 (…体痛ぇ…俺、どうしてたんだっけ…?) 痛みを訴える体に怪訝に眉を寄せ、辺りを見回しながら覚束ない思考で考える。上手く力の入らない腕で地面を支えに起き上がってみようとするが、しかしそれは適わずふらりと倒れ込んでしまう。 (…力、入んねぇ…起き上がるのは無理、か…) 地面に体を預けた状態でそんな事を思いながら暗闇の中仄かに見える天井に視線を彷徨わせる。 再び、夜気が薄暗い室内へと流れ込んできて天真の肌をなぜる。 冷たいその夜気に天真の体がまた震えた。 (…さむ…っ、っていうか…俺…!?) 肌を刺す寒気にふと視線を向けた自らの体を見て、天真は心内で動揺を覚えて。 (…何でっ?…俺、何で何も着てないんだ…!?それに…) 微かな月明かりに照らされた自分の姿が一糸纏わぬ姿である事に、その露になっている肌に残された抗いようのない痕跡に、内心の天真の疑問と動揺は大きく膨らむ。 思うように動かない体は、何があったのかを如実に語っていて。 緩やかに、けれど確実に…天真は自分の身に起きた事を思い出した。 (そうだ…あいつが俺をここへ呼んで、無理やり押さえつけた…それで…あんな、事を…) 『…逃げられなく、してやるよ…』 そう言って押さえつけた天真の体を強引に開いた者の姿が瞼の裏に浮かぶ。あの時掴まれていた手首は、今もジンと熱を持って微かな痛みを残している。 それだけではない、肌に残された赤い痕も深く蹂躙された証たる残骸も、体の奥深くに残る熱い疼きさえもが、現実を突きつけているではないか。 (まさかあいつが…イノリがあんな事を、するなんて…) ズキン、と胸の奥が痛む。 イノリは抵抗の余地さえ与えずに天真の体を押さえ込んで無理やりに犯した。 抗う心と裏腹に、天真の体はもたらされる快楽を素直に受け入れて、後戻りの出来ない所まで…行ってしまったのだ。 (傷ついた、なんて思いたくねぇのに…体も、心も…痛い…) 僅かに動かせる腕で自らを抱くようにして、キュッと瞼を閉じる。しかし、そうした事でよりリアルに意識を飛ばす前の事がまざまざと脳裏に浮かんでしまい、一層胸を痛める。 翻弄され熱に浮かされるように快楽に堕ち、奪われた体。刻み込まれた未知なる恍惚に乱れ、狂い始めた己の体を、天真は悔しげに唇を噛み締めて睨み付けた。 幸いなのは、今この場に苦痛を与えた本人たるイノリがいない事くらいか。 (こんな姿…誰にも見せられねぇ…誰、にも…あいつだけには…絶対、見せたくない…っ) 浮かびそうになる涙を堪えながら、天真は脳裏の隅にある者の姿を浮かべた。 少し生真面目すぎる、安心して背を預けられるただ一人の対の存在。密かに想いを募らせていたその存在を。 (…頼久は俺が部屋にいない事を知ったらきっと探しに来てしまう…その前に、ここを離れなきゃ、いけないのに…何で動かないんだよ…っ?) 重くびくともしない体を煩わしそうにしながら、それでも何とか起き上がろうとして空しい徒労に終わる。情けない…そう思うものの、そうする以外どうする事も出来ずにいる。 それは傍から見れば何とも滑稽な姿だっただろう。それでも天真は、起き上がり場を離れるという手段を得ようと懸命に起き上がろうとしていた。それが何度徒労で終わろうとも。 (…動いて、くれ…っ!) 強くそう願いながら籠められるだけの力を籠めて再度挑戦するが、やはり僅かに力及ばず深い溜息と共に天真は、地面の上に力なく崩折れた。 夜も随分更け、神子であるあかねがすやすやと寝息を立てているのを感じ取って、土御門の屋敷を一通り見回ろうと頼久は警護の席を外した。 庭から順に見て回り、武士団の棟へと来た所で一度足を止める。 (天真はもう寝ているだろうか…) どうにも夜更かしをする傾向のある天真を気にして、自分の部屋の隣に宛がわれている天真の部屋を御簾越しに覗いてみる。御簾を隔てていては確認し辛いが、どうも部屋には人がいる気配はない。 (…天真、いないのか…?このような刻限にどこへ…!?) 天真の姿がない事に僅かに動揺しつつ、しかし冷静に警護を替われる者を探す。 ちょうどそこへ武士団の若者が通りがかり、その者に天真の不在の旨と警護の交替を頼み、その足で天真を探すべく土御門を後にした。 夜闇の中、頼久は手探りで京の町並みに天真の姿を探す。神泉苑を通りすぎ、朱雀門に通じる大通りへと出たが、やはり天真の姿はなく。 (…どこへ行ったのだ、天真…?夜半に一人で出歩くのは危険だと…そう教えた筈だろう…!?) 以前天真は、強くなりたいからと言って夜中に屋敷を抜け出して一人で鍛錬をしていた事があった。翌朝見慣れぬ傷を作っていた天真に理由を聞けば、夜半の鍛錬中に怨霊に出くわして襲われたとばつの悪い様子で言ったのを思い出す。その時、頼久は自らを省みず危険を冒した天真を厳しく注意して夜半には一人で外出しないようにと窘めたのだ。 しかし、現に今、天真は屋敷にはいない。仲間として、対の存在として…心配するのは当然の事だろう。それだけではない想いを、身の内に秘めて。 (どこに…どこにいる、天真…っ!?) ふいに。 左耳の宝玉が熱くなるのを感じた。心からの叫びに応えるかのように、僅かにであるが宝玉が共鳴するのを感じ取る。 導かれるように、頼久は大通りを朱雀門とは反対の方角へ、羅城門の跡がある方角へと歩き出した。 羅城門の跡地、その荒れ果てた土地を見やりながら、何かを察するようにイノリはフッと自嘲気味の笑みを浮かべた。 (…そろそろかな…もう、あいつは気づいてこっちに向かってるだろうな。あいつが天真を見つけられるか、見つけたとしてどう動くか…天真はこの状況でどうするのか…) 羅城門に向けていた視線を朱雀門の方へと移動させながら、思考を巡らせる。その表情はやはり、年とはかけ離れた一人の男の顔で。 (なるようにしかならねぇのは承知の上だ。今更どう足掻いたって天真を傷つけずに前へ進める訳もない…あいつだって、あの状態の天真を見て正気を保てるとは思えねぇし…) 頼久が天真を特別な目で見ている事はすぐに分かった。自分とて天真にそういう想いを抱いているのだ、同じように思っている者の存在に気づかない筈はない。 けれど、天真は自分が二人の人間から特別な感情を向けられている事など気づかずに、無防備な姿を無意識に晒す。知らずそんな天真に煽られ続けては、抑える術もなくなるというものだろう。 (こんなやり方しか出来ないのが本当に悔しいけどな…天真の傷つく顔は見たくねぇけど…それでも、オレは…っ) スッ、と歩を進める。天真を連れ込んだ廃屋へと向けて。 頼久に天真を渡したくない、その思いは変わらず胸の内に残したまま、今も天真が動けずにいるだろう場所へとイノリは向かった。 |
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