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 心地よい疲労感が体を支配していた。自分はここで終わるのかもしれない、そう思った矢先、何者かが眼前に現れた。
 途切れゆく意識の中で体が浮遊する感覚を覚え、自分が抱え上げられたのだという事を理解した。 そこで意識は、完全に途切れた。  

 雷牙は重い瞼をゆっくりと開いた。 頭がまだぼんやりとしていて焦点が合わない。体のだるい感覚もまだ消えてはおらず、首を巡らせるのさえ億劫に感じられた。
 視線の先には白い天井があり、どこかの室内にいるのだという事が分かる。では、ここは何処なのだろう。視界に映る部屋は見慣れない部屋だ。
 あの路地で意識が途切れる前に、誰かに会った筈だ。きっとその人物が自分をここまで運んだのだろう。それが誰なのかと雷牙は思考を巡らせ、答えに行き着いた時はっきりと見て取れる程の動揺を浮かべた。
(赤屍…!あの時オレが見たのは赤屍だった…だが、あの男がオレを助けるなど…)
 意識を失いかけていた雷牙の前に現れたのは、ドクター・ジャッカルと呼ばれ恐れられている運び屋の男だった。彼の残虐で狡猾な手口は運び屋業界の中でも最低最悪のものと言われていて、奪還屋として何度か彼と共同戦線を張った事のある雷牙達でさえも背筋を冷たいものが走った程だ。
 そんな男が自分を助けるのはおかしな話だ。ましてや彼は100%力を解放した雷牙と戦いたいと常から言っていた。 いくら無益な戦いを望まない自分でもあの状態で戦いを挑まれれば、生きて再び銀次と蛮に会う為決死で戦ったに違いない。だからこそ、それをせずに自分を助けるというのは不思議でならなかった。
「おや、気が付きましたか?」  
 ガチャッとドアを開けて室内に入ってきた赤屍は、意識を取り戻した雷牙の姿を認めて声をかけた。声のした方に少しだけ首を傾げると、ベッドに寝かされているらしい自分の方に彼が近づいてくるのが見えた。 
 赤屍は手にしていた盆をベッド脇のフリーラックの天板上に置き、そのまま掌を雷牙の額へと宛がった。
「…まだ少し熱があるようですね。ですが火傷の方はほぼ完治しています…相変わらず桁外れの回復力だ」  
 真新しいタオルをたらいに張った冷水に浸して絞りながら、赤屍は感心するようにそう言った。 絞り終えたタオルを雷牙の額に乗せてくれる。ひんやりとしたその感触が、まだ熱っている雷牙の頭を心地よく冷ましていく。
「…ここは…?どうしてアンタが…」
 雷牙はまだいまいち状況を飲み込めていないのか、漸く合い始めた焦点に赤屍の姿を映して問いかけた。喉が渇いているのか声は掠れて小さい。
「ここは私の家ですよ、雷牙君…。貴方が重傷を負っているのを見かけて放っておけず、ここまで運んで手当てしました」
 瞬きを繰り返しながら何とか状況を把握しようとしている雷牙に、赤屍は丁寧な口調で簡単に今の状況を説明してやった。彼が本当に自分を助けたのだという事が判明して、雷牙は素直に驚きを隠せない。
「何故だ…?アンタがオレを助けたのは、何故だ…?」
 それだけではない。ただ助けるだけならそのままHONKYTONKにでも置いて行けば手当ては波児達がしてくれるだろう。それにも拘らず何故手当てまでもわざわざ自宅に運び込んでまでしてくれたというのか。
 雷牙にはこの赤屍蔵人という男が一体何を考えているのか、皆目見当も付かなかった。
「何故、ですか…?それは私が医者だから…という事では理由になりませんか?」
 赤屍は不敵な笑みを浮かべてそう言った。だが雷牙にはそれだけが理由だとは思えない。  
 確かに赤屍は表向き医者という職業に就いている。奪還屋という稼業はとかく生傷の耐えないもので、 雷牙達が病院にかかる事は度々あった。その折幾度か 医局にいる彼を見かけているから、赤屍が医師免許を 持つれっきとした医者である事は証明済みだ。
 そうは言ってもあの不敵な笑みの中に何か含みがある感を否めず、雷牙は不審な顔で赤屍を凝視した。
「クス、そんな顔をしないで下さい…。納得がいきませんか…今の答えでは?」
「アンタがそんな理由でオレを助けるとは思えない…何か企んでいるのか?」
 雷牙がそう鎌をかけても赤屍は不敵な笑みを崩さなかった。それどころかさも楽しげにクスクスと笑っている。 自分は彼にとって余程おかしな事を訊いたらしい。
「企む?私が一体何を企むというのですか…おかしな事を言いますね、雷牙君」
「…アンタが自分の損得なしに動く筈がない。ただオレを助けてアンタに何の利益があるっていうんだ?」  
 彼が雷牙を助ける事で雷牙に得はあっても、赤屍には得も利益もない筈だ。損をするだけの行動を何故自ら率先して行っているというのだろう。それが分からない雷牙はまだ体に残る微熱の為に喉が乾燥しているのも忘れて、眼前の赤屍にそう言い放った。  
 赤屍が雷牙から視線を外さないまま一息嘆息する。 先程まで揶揄するような軽い微笑だった笑みが、あの路地で意識を失う直前に見た、妖しさを秘めたものへと変わる。口元は微笑っているのに、紫の細い瞳は少しも笑んでいない。
「やれやれ、貴方という人は…。私が利益を求めても構わないと、そう仰るのですか…?」
 仰向けでベッドに寝かされている雷牙に覆い被さるようにして、赤屍が雷牙の顔を覗き込んだ。体を赤屍の両腕の間に挟まれ、雷牙はそこから逃れられない。
「どういう、事だ…?」
 赤屍の右手が雷牙の頬を捉える。
「本当に貴方はおかしな方だ…折角見逃して差し上げようと思っていましたのに」
「…え…?」
 クスリと笑って雷牙の顎を上向かせながら呟いた赤屍に、雷牙が瞳を瞬かせた瞬間、その唇を赤屍の唇が塞いだ。
「…ッ!?ん…んぅ…んん…っ」  
 突然の赤屍の行動に雷牙はこれ以上ないという位に両目を見開いた。
 急に口を塞がれて上手く呼吸出来ず、体内に入る空気の量が減り息苦しくなる。赤屍の体を押し退けようと伸ばした腕は簡単に阻まれて虚しい徒労に終わる。
「っは…ぅん…んんぅ…はぁ、んぅぅ…っ」
 何度も角度を変えて口づけられ、口角から収まりきらない唾液が零れ始める。それでも赤屍はまだ雷牙の唇を解放しようとしない。 歯列を割って赤屍の舌が更に奥へ侵入してきて、雷牙の舌を絡め取る。
 既に何が起きているのか把握出来なくなった雷牙は、ただされるがまま赤屍の口付けを受け続けた。
「クス、大丈夫ですか…雷牙君?」  
 漸く雷牙の唇を解放して赤屍が尋ねると、荒くなった呼吸を整える事もままならない雷牙はキッと彼を睨みつけた。
「何の、つもりだ…!?こんな…こんな事をして…っ」
 ハァハァと荒い息を吐きながら、雷牙は赤屍の行動を責め立てる。だが、赤屍は悪びれた様子もなく平然とした顔で雷牙を見下ろしていた。
「貴方が隙を見せるからです…利益を求めても良いのでしょう?貴方が言ったんですよ…私は損得なしには動かない、と」  
 確かに雷牙は自分を助けたという赤屍にそう言った。それは彼が自分を助けたのには何か裏があると踏んだからだ。 自分の快楽を得る為には手段を選ばない赤屍が、助けた所で彼自身には何の得にもならない自分を見返りもなしに助けるというのは奇妙な事だと思ったのだ。 だからこそ、そんな言葉を彼にぶつけたのだが、まさかこのような仕打ちを受けるとは思っていなかった。  
  先程まで赤屍の唇が触れていた己のそれを、雷牙は指でそっとなぞった。
「だからって、何でアンタがオレにこんな事をする…!?一体どういうつもりなんだ…!」
 出来る事なら今すぐにでも逃げ出したい所だが、体が赤屍の腕の間で固定されていてそれは不可能だ。その代わりに敵意を込めた眼差しで赤屍を強く睨み続ける。
「…それを話したら貴方はもう逃げられなくなりますよ、いいんですかそれでも?」
「何も解らないよりその方がマシだ…アンタは一体オレをどうしようっていうんだよ!?」
 やけに含んだ言い方をする赤屍に、痺れを切らしたように雷牙はそう叫んだ。 胸の奥がもやもやして嫌な気分だった。一刻も早くはっきりさせて、少しでもそのもやもやを消し去りたかった。
 けれど、急かされて口を開いた赤屍の発した言葉は、雷牙の想像の域を遙かに超えていた。
「私が貴方にあのような形で利益を求めたのは、私が貴方自身を欲しているからです、雷牙君…」  
 腕の中に組み敷いた雷牙に微笑みかけながら、赤屍はそう語った。 その言葉に雷牙はもやもやを消し去るどころか、ますます頭を混乱させる。今目前にいる男が何を言ったのか、全く理解できなかった。
「何、だよ…それ。何言ってんだよアンタ…?」
 一目で見て取れる程に動揺して視線を彷徨わせる雷牙の、そう話す声は微かに震えている。雷牙は赤屍の口からこんな言葉が出るとは想像していなかったのだろう、そう思っていたに違いないと赤屍は明らかな動揺を見せた雷牙を見て悟った。
「解りませんか…?私は貴方の事が好きだと言ったんです」  
やはり赤屍の言葉を理解していない雷牙に、今度ははっきりと好意を持っているのだと告げる。
 雷牙は先程よりも驚きと理解に苦しむといった表情を色濃くした。並大抵の事では揺らぐ事のない雷牙の瞳が行き場を失くし揺らめく。
「アンタが…オレを、好き…?何で…?」  
 格好の標的という意味でならそれも解る。 だが、先程赤屍は自分にキスをした。それも触れるだけではない、噛み付くような激しいディープキスだった。ならばその意味合いは『恋愛』と分類されるものになるのではないか。
 しかし、雷牙には赤屍がそういう意味で自分に好意を寄せる心当たりがない。それならどうして赤屍はそんな想いを自分に抱くようになったというのだろうか。
「何故、と申されましても困ります…。貴方を好きになった理由は一言では語れませんからね」
「そんなんじゃ解らない…っ、アンタは100%のオレと戦いたかったんじゃないのか!?アンタとオレは初めは敵同士で、今だってあまり変わらない…なのに何でそんな事…っ」  
 理由を求めてもはぐらかそうとする赤屍に、捲し立てるように問い質した。そんな通り一遍の答えでは混乱を起こした雷牙の心は納得出来なかった。
「確かにその通りです、私は100%の貴方と戦いたいと思っていました…けれどいつからか私の興味は貴方と戦う事よりも貴方自身に向いていました」  
 腕の中で不安げに瞳を揺らす雷牙に赤屍は穏やかな口調で語る。 天を突くように立ち上がった金糸の髪の中に指を差し入れて優しい手つきで梳いてやる。
「…オレ自身…?何故だ…?解らない…アンタが何を考えてんのかオレには解らない…っ」  
 雷牙は胸中をざわつかせるもやもやとした混乱に耐え切れず、自分を覆う赤屍の胸を激しく打ちつけながら叫んだ。  
 解らない。赤屍の声が穏やかで優しい訳も、触れてくる手が暖かい理由も、自分に微笑みかける表情の事も。 何より自分を見る彼の瞳が、密かに想いを寄せている蛮よりも柔らかく暖かいものに感じられた事が一番解らなかった。
「…貴方が好きです」
「嘘だ、そんな言葉信じられない…っ」
 真っ直ぐに見つめてくる視線を受け止める事が出来ず、雷牙はかぶりを振って赤屍の視線を交わした。 彼の目をまともに見る事が出来ない。見てしまえばもうその視線を逸らせなくなる、雷牙は何故かそう思った。
「貴方が好きです、雷牙君…」
 顔を背けた事で露になった雷牙の首筋へ口付けながら、赤屍はもう一度己の想いを言の葉に乗せ紡ぐ。 熱情的な声と熱い吐息が首筋へ注がれ、雷牙はビクッと体を震わせた。
「…っ、オレは…オレは違う…っ」
流されてしまわないようにそう言って必死で抵抗する。 たとえ赤屍が今自分をどう思っていようと、雷牙が想いを寄せているのは蛮なのだ。弟の銀次が自分と同じように蛮へ想いを寄せている事を知っているから、自分の想いを告げようとは思っていないが。
 それでも想う事は自由の筈だ。そう、思っていた。 けれどそれは赤屍が許さなかった。叶いもしない想いを雷牙が秘め続けているのを、見ていられなかった。 
 赤屍は知っていたのだ、雷牙と銀次が誰を見ているのかも、蛮が誰を見つめているのかも。
「そう…貴方が好きなのは私ではなく美堂君、なのでしょう?知っていますよ…貴方が誰をその瞳に映しているか」
「…っ…」  
 赤屍の口から想い人の名が出てきて、雷牙は必死に逸らせていた顔をついに赤屍の方へ向けてしまった。 切なく伏せられた紫の瞳に凍りついたような雷牙の顔が映る。
 銀次と同じ琥珀色の瞳を驚愕に見開いて、雷牙は固まったように眼前の赤屍を凝視した。
「ついでに言えば銀次君が貴方と同じく美堂君に想いを寄せている事も知っています…。そして美堂君が誰を想っているのかも…」
 とうとう視線を剥がせなくなった雷牙は、激しく脈打つ鼓動を頭の遠くに聴きながら、赤屍の言葉を聞いている。暴かれていく真実に肩を震わせ、眦に涙が滲む。  
 怖い、と心が悲鳴を上げていた。 蛮が誰を見ているかなどとっくに気づいていた、けれど気づかない振りをしていたのだ。それを蛮ではなく赤屍から聞かされる事が怖いと思った。
「美堂君が想いを寄せているのは…」
「…言うなっ、そんな事は聞きたくない…っ!!」
 赤屍がそれを言い終わる前に雷牙は耳を塞いでそう叫んでいた。 両の目から涙をポロポロと流し、苦しげに表情を曇らせているその様子からは無限城の雷帝の気配は何一つ感じられなかった。 今赤屍の前にいるのは『天野雷牙』という普通の少年だった。
「アンタに言われなくてもそんな事知ってたさ…蛮が誰を見ているかなんて。でも気持ちを止める事なんて…出来なかった…」
 弟の銀次にでさえ縋る事のなかった雷牙が赤屍の腕に縋って涙を流す。赤屍はそれを優しく受け止めて、雷牙の体を自分の胸に抱き寄せた。
 先程まで激しく抵抗を見せていた筈の雷牙はそれを拒む事もなく、赤屍の胸に顔を埋めて子供のように泣きじゃくる。 現実から目を逸らせなくなったその瞬間に、今まで長い間張り詰めていたものが崩れ去ったのだ。
「私は見ていました…貴方達の事を。美堂君に叶わない想いを寄せて苦しむ貴方をずっと見ていました…」  
 おとなしく腕の中に包まれている雷牙を抱き締めて、赤屍は静かに語り始めた。雷牙達三人の事を見ていて自分が何を思い、どんな気持ちでいたのかを。
「私はそんな貴方を見て…貴方の苦しみを取除けたら良いのにと、いつも思っていました…。苦しむ貴方を見ているのは辛かった…」
「…何故?オレの苦しんでるのが、何で辛いんだ…?」
 自分の事のように辛そうな声で語る赤屍に、雷牙は腕の中から彼を見上げて問いかけた。自分を見つめる琥珀の瞳を見つめ返して、赤屍は再び口を開く。
「貴方を好きだと気づいたからです…貴方が好きだから苦しむ貴方を見たくなかった、怪我をしている貴方を放っておけなかった…」
「そんなの…オレがアンタを好きになるなんて保障もないのに?」
 そんなに簡単に蛮を想う気持ちは変えられない。それでもこの男は自分を好きだというのだろうか。
「貴方が美堂君への気持ちを捨てられないように、私も貴方が誰を見ていようとこの気持ちを偽る事は出来ません…貴方が好きです、雷牙君」
 アメジストの瞳が愛しげに腕の中に確かにある温もりを見つめる。
 暖かい、と雷牙は思った。自分を見つめる赤屍の眼差しも、抱き締めてくれる腕の温もりも。 蛮への気持ちをすぐに忘れられる自信はない、けれどこの暖かな温もりが今の自分には必要なのだと、唯一縋れる存在なのだと…雷牙は何故かそう思えた。
「オレにはまだアンタの想いの深さが解らない…。そんなにオレが好きだって言うならちゃんと教えてくれよ…っ、オレが理解出来るように…!」  
 抱き締める赤屍の背に自分の腕を回して自分からも彼を抱き締めた。 赤屍が優雅な笑みを浮かべて雷牙の体をベッドへ沈める。
「貴方を…愛しています」
 耳元へ低音の声で囁かれて、雷牙は自分の心臓が高鳴る音を聴いた。
「…赤屍…っ」  
 赤屍が首筋へキスを送りながら雷牙の体を優しく撫で始めると、本能の命じるままに雷牙はその身の全てを赤屍に委ねた―――――。



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