HONKYTONKの二階にある客室、その内の一つを蛮と銀次は波児から借りていた。自宅のあるマンションにそのまま帰っても良かったのだが、もし雷牙が怪我を負ったまま戻ってきたら自分達だけでは手当てしてやる事は難しそうだったからだ。  
 既に一晩が明け、あの爆発のあった日の翌日になっていた。依頼人が逃げ去るように出て行った後、何度か時間を空けて蛮が雷牙の携帯に電話をかけたりメールを入れたりしていたが、何の音沙汰もない。
「あー、やっぱダメだっ…メールの返信も来てねぇ」
 既に十数回目となるその台詞を、携帯の液晶画面を見つめながら蛮は呟いた。その声に銀次が腰掛けていたベッドの上から蛮を覗き込む。
「まだ雷牙から何の連絡もないの?」
 ベッドの脇に凭れるようにして床に座っていた蛮は、後ろから覗き込んできた銀次にEメールの受信箱の画面を見せてやる。 そこに雷牙からのメールはなかった。
「…ホントだ、返信着てないね。これじゃドコにいるのかも解らないし本当に無事なのかも解らないよ…」  
 ハァーッと、昨日からもう何度吐いたかしれない溜息を、銀次は吐き出した。 蛮がそんな彼を見かねてベッドの上に乗り上がり、横から銀次の体を抱き締める。
「またそんな顔しやがって…大丈夫だっつってんだろ?連絡がこねぇのはアレだ、心配する程の怪我じゃないかまだどっかで寝てんだよっ」
そんな風に強引に納得させるが、未だ連絡のない事を銀次が不安がるのも無理はない。
「…蛮ちゃん、その台詞もう十回目だよ」
 蛮の腕に抱かれたままでクスッと笑いながら銀次はそう言った。どうやら銀次が不安な顔をする度に同じ事を言って銀次を励まそうとしたらしい。 そんな同じ台詞で不安が少しでも癒される自分は単純なのかもしれないが、それでも蛮がそう言って抱き締めてくれるだけで銀次の心は随分楽になった。
「…おめーも人の事言えねーだろ、何回『雷牙は無事でいるよね?』っつったよ?」
 クシャクシャ、と銀次の金の髪を掻き乱して蛮も笑う。 銀次が笑ってくれた事が嬉しいと思った。 昨日からすっかり落ち込んでしまっている彼を見て、元気を出して欲しいと思っていたからだ。
 銀次に悲しい顔は似合わない。彼にはいつでも笑顔でいて欲しい。蛮はその為なら何度でも銀次を励ますのだろう。
「だって、心配なんだもん…。蛮ちゃんだって雷牙の事心配でしょ?」
「ま、そりゃ心配だがよ…連絡もつかねー以上何が出来るって訳でもねーしな」
 蛮をまじまじと見つめて尋ねる銀次に、参ったという顔で答えれば、また銀次はシュンと顔色を曇らせる。  
 一体何度こんなやり取りを繰り返しただろう。考えてみれば昨日の夜から銀次の話題に上るのは雷牙の安否の事ばかりであった。結果、蛮もそれを考えざるを得なくなり、堂々巡りを続けていたのだ。  
 だが、ふと蛮は思った。果たして爆発に巻き込まれたのが雷牙ではなく自分であったなら、銀次はここまで心配してくれただろうか、と。
 銀次がただ一人の兄を強く心配するのは良く解った。自分のかつての相棒であった卑弥呼も兄の邪馬人を慕い、その命を奪った蛮を酷く憎んだ時期があった。兄弟の絆というものの強さは何度も目の当たりにしてきてよく知っていたのだ。
 だが、もし今の雷牙と蛮の立場が逆だとしたなら、銀次は同じように心配してくれるのだろうか。 銀次を愛しいと思う余りに、蛮は常に銀次の心を占めているだろう雷牙を羨ましく感じたのだ。
(なぁ、銀次…もしあの時オレの方が爆発に巻き込まれてたとしたら、お前は雷牙と同じようにオレの事も心配してくれたか…?)
 黙ってしまった銀次の顔を見つめながら、心の中で蛮はそう言った。すると、蛮と同じく眼前の蛮の顔を見つめていた銀次の表情が瞬時に青ざめる。
 驚いた顔で瞳を揺らし、銀次はポツリと呟いた。
「な、に…言ってるの、蛮ちゃん…?」
 零れ落ちそうに大きく開いた目で、蛮を見つめる銀次の顔は明らかに困惑の様相を呈している。
「銀、次…?」
 何故銀次がそんな顔をするのか蛮には分からず、ひどく動揺している様子の彼に恐る恐る声をかけると、銀次はまるで何かを恐れるように蛮に抱きついてその胸に顔を埋めた。
 胸元が冷たく濡れる感覚がして、銀次が涙を流している事を蛮に伝える。
「ど、どうしたんだよ…」
 甘えるように蛮に体を預けて泣き出した銀次の姿に、蛮は優しく抱き止めてやりながら問いかける。
「どうしてそんな事言うの…?『もし爆発に巻き込まれてたのが自分だったら』なんて…そんな事、言わないでよぉ…っ」
「…っ!?」
 蛮にしがみつくように抱きついたまま、銀次は涙交じりの声でそう叫んだ。それを聞いて今度は蛮が激しく動揺する。
(…ヤベェ、オレさっきの声に出してたのか…っ!?)
 心の中で言ったと思っていた事を、自分でも気づかない内に声に出して言っていたのだ。それを聞いてしまったから銀次は動揺してしまったのだ。
「オレ、嫌だよ…あの爆発に巻き込まれたのが蛮ちゃんだったらなんて、考えたくない…っ。そんなの、嫌…だよ…」 泣きじゃくりながら、銀次は必死に話す。蛮にそんな風に言われた事が悲しくて、涙が幾筋も流れる事も構わず自分の気持ちを主張した。 その様子に蛮は言ってはいけない事を言ってしまったと後悔する。それも声に出していた事すら気づいていなかったというのは始末が悪い。
 謝った所で一度言った言葉が消える訳ではないが、蛮は己の失態を詫びずにはいられなかった。
「悪ィ、銀次…言い過ぎた。だからもう泣くなよ…」
 なかなか泣き止まない銀次を宥めるように優しく抱き締めて、蛮は銀次にそう言って謝罪する。 銀次も涙を拭って何とか泣き止もうとするが、蛮を失っていたならと考えると次から次へと涙が滲んでしまい、それは出来そうにない。「…オレ泣き虫でごめんね、蛮ちゃん?でも、涙が止まらないんだ…雷牙が傷つくのも蛮ちゃんが傷つくのもオレは嫌だよ…っ」  
 ぎゅっと蛮のシャツを握り締めて銀次は吐き出すように言った。肩が震えているのが彼を抱き締めている蛮にもはっきりと伝わる。
 自分がうっかり口にした言葉でこれ程の動揺を見せた銀次に、彼が自分の事も見てくれていた事を嬉しく思う反面、やはり彼が雷牙の事を気にかけている事が悔しい、そんな複雑に入り混じった思いを蛮は胸中に覚えた。  
 我が侭な感情だと思う。だが、自分だけを見て欲しい、そんな気持ちが蛮の心を支配していく。 銀次が兄である雷牙の存在を切り離せない事を承知していながら、それでも蛮は銀次に自分だけを見て欲しいと望んでしまうのだ。
「蛮、ちゃん…?」  
 涙交じりの声のままで銀次が蛮に尋ねる。蛮の手のひらが銀次の頬を濡らす涙を拭い、その手の温もりを銀次に伝えた。 不思議そうに、だが少し不安げに、揺らめきながら蛮を見つめる銀次を、蛮は心の底から愛しいと思った。愛しくて愛しくて、募った感情は今にも抑えきれずに溢れ出てしまいそうだ。  
 こんな時に想いを告げるのは卑怯だ。仲間が大変な時に優先させていい事ではない筈だ。 だがそんな事は最早すっかり頭の中から消えていた。 今は少しでも早く自分の気持ちを伝えたい、そして 彼の気持ちを知りたいと、その想いが無意識に蛮を衝 き動かした。
「…ば、ん、ちゃ…んっ…んんっ!?」
 少しずつ迫ってきた蛮の顔に銀次が戸惑った直後、 二人の顔と顔の距離は全くなくなり蛮の唇が銀次のそれを覆うように触れた。 腰を抱き込まれ、頬に触れていた手はいつの間にやら銀次の後頭部に回されていて、頭を固定し蛮の行動から逃れられなくさせている。
「んぅぅ…ふ…ぅん…っ」
無抵抗の銀次は困惑しながらも蛮の思うままに任せて彼の口付けを受けた。 内心では雷牙に悪いと思いながら、それでも蛮が与えてくれる温もりを拒めなかった。
「銀次…好きだ」
 名残惜しそうに唇を離して蛮は銀次に想いを告げる。その熱を帯びた声に、彼が本気でそう言ってくれているのだと解る。
「好きなんだよ、お前の事が…。こんな風に腕ん中閉じ込めて独占してーくらい…お前が好きだっ」
 真剣な眼差しで見つめられ、銀次の鼓動は激しく高鳴る。まるで体内で何者かが楽を奏でているかのようだ。
 嬉しくて堪らなかった。蛮が好きだと言ってくれた、 他の誰かでも同じ顔をした雷牙でもなく、自分を選んでくれた事がとても嬉しかった。
「お前は…?お前はオレの事どう思ってる…?なぁ、聞かせてくれよ、銀次…」
 自分を見つめたまま黙っている銀次に、蛮は彼を殊更優しく抱き締めながらそんな風に尋ねた。 不安の混じったその声は銀次の気持ちが分からないからなのであろう。
 嫌われてはいないだろうと思うが、どれだけ好かれているのかが分からないのだから無理もない。
「オレは…オレは、蛮ちゃんの事…」
 蛮の問いかけに答えようと、銀次は漸く口を開いた。自分も蛮に好きだと伝えたい。けれど、銀次はそこから先を躊躇ってしまった。
 銀次の脳裏に雷牙の辛そうな顔が浮かんでしまったのだ。雷牙がこの場にいないというのに蛮に応え、想いを告げるのはフェアではない、そう思ったのだ。
(ダメだ…こんなのやっぱずるいよ。雷牙は今も怪我とかで苦しんでるのかもしれないのに…こんな、抜け駆けみたいな真似できない…)
 蛮の事が好きなのだと声を大にして言いたい、けれどその気持ちを心の奥に押し込んで、銀次は蛮の腕からスルリと抜け出した。 蛮がびっくりしたように銀次を見つめる。どうして逃げるのかと困惑の顔をしている。
「銀、次…?」  
 銀次の瞳から再び零れ出した涙に、更に困惑の色を蛮は浮かべた。自分は銀次を泣かせる事しか出来ないのかと、情けなさと歯痒い想いが胸中で渦巻く。
「ごめん…っ、蛮ちゃんの気持ちはすごく嬉しい…でも今はオレ、返事出来ないよ…っ」
 みっともなく流れ落ちる涙と泣いてる顔を見られたくなくて、銀次は自分の手で顔を隠して苦しげにそう言った。
「今はって…何で今じゃダメなんだよ?」
「…もう少し待って、待っててよ蛮ちゃん…」
 納得がいかないというように、蛮は銀次に問いかけた。だが、銀次は酷く苦しげな表情を浮かべて蛮を見つめる。蛮の気持ちに応えてやれない事が辛い。
「お願いだから…待ってて?」
 そんな風にしか言えない事が悔しい。それでも銀次は雷牙の蛮への想いを無視する事は出来なかった。
「何で今は返事出来ないんだ…?」
「だって、今は雷牙が大変な時なのに返事なんて出来ない…雷牙が無事に戻ってくるまではそういう事、出来ないよ…っ」  
 これ以上蛮を見ていたら縋ってしまいそうで、銀次は蛮に背を向けて蛮の告白に対して返事が出来ない理由を告げた。
 すると背後で短い溜息を吐く音が聞こえた。背中を向けてしまっていたから目で確認は出来なかったが、蛮の吐き出したものだと思われる。
「…わーったよ、待ってやるよ雷牙が戻ってくるまで」
「…蛮ちゃん…」
 まだ背を向けたままの銀次に蛮が余りにあっさりと納得したので、銀次はつい振り返ってしまった。一度離れた視線と視線は再び合う。
「そんかわり、アイツが帰ってきたら絶対返事くれよ?…いいな!」
 少しぶっきらぼうに言ってぐちゃぐちゃと銀次の髪を掻き乱した。その顔にはうっすらとであるが、笑みが浮かんでいた。
「…ありがとう蛮ちゃん…。絶対オレ返事するからっ、言える時が来たらちゃんと言うよ…オレの気持ち」
「おう、それまで待ってるぜ…」
 いつもと変わらず優しく微笑んでくれる蛮に、銀次は一日でも早く雷牙の安否が分かり彼が戻ってきてくれる事を心から願った。そして今伝えられなかった想いを蛮に伝えたいと、そう思った。
 蛮がベッドの上に投げ出していた携帯を手に取る。簡単に身支度を整えて立ち上がると机の上からスバルのキーを取った。
「ま、ただの気休めにしかならねーかもしれねーが…探しに行くか、『雷帝サマ』をよ?」
「…うん!」  
 そんな会話を交わして、二人はHONKYTONKを後にして、未だ行方知れずの雷牙を探すべくスバルに乗り込んだ―――――。



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